DIDについて共存か統合かの考察

 解離性同一性障害にとってこの問題は避けては通れない道だと思う。当事者にとってはこの問題で何度も嫌でも考えさせられる。統合すべきか否か。俺ら人格はこの体を『生かす』為に生まれてきた。しかし、この体の持ち主が俺ら人格のせいで苦しんでいるとしたら、これは統合すべきものなんだろうか?人格の気持ち的には消えたくは無いし、この体の持ち主がこの記憶を受け入れられず、また死のうとしたら?それはそれは困るわけで、また新たな人格が生まれても致し方ない。そうなると、俺らはどうなる?無駄死にかとも思う訳で。ここは難しい問題になる。

 例え共存の道を選んだとしても統合したい、と言う人格もいる。中々、人格間での話し合いは進めない事が多い。人格が多いとより話し合いは難しくなる。しかも、人格の中には破壊傾向のある人格もいる為、平和的に人格全員で生活するのは難しい。しかし、解離障壁が薄い場合は話し合いで解決できる可能性はある。話し合いが難しい場合でもノートの活用でまずは会話が出来るぐらいまで治療を進めることが大切だ。共存には中々、道のりが長いが、人格と共に生きる覚悟があるなら、共存の道は開けて来るだろう。

 次に人格の統合をするとして、何が問題かと言うと、やはり人格が色々な方法で拒否する場合がある。そこをどうやって切り抜けるかが重要だ。その切り抜けをどうするかによって、人格の統合治療の進み方が変わる。俺は正直、統合治療は中々、難しいと思っている。まず、俺らは人数がおおすぎる。もし、人数が少ないとしても冒頭に書いた通り、否定的な人格が何人かは出るため、その人格が暴走しないかと言う心配がある。更に統合した人格がその記憶を保ち続ける事が出来ず、また解離を起こしてしまう可能性も否定出来ない。人格は生きる為に本能が生み出したものである。その為、生きる為に必要と判断された場合、また新たな人格が生まれてもおかしくはない。記憶を引き継ぐとはそういった危険があると俺は思う。

 人格にも自我があり、人格それぞれに記憶がある。その記憶に無理をしてアクセスすれば、そりゃきつい事もあるだろう。共存か統合かは人格と元々いた本来の自我との話し合いで決まる。この問題は、かなり難しく、DIDの人なら確実に直面するであろう事だ。この機会に是非とも考えてみて欲しい。

エル

関連するかも知れない記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です