インターネットという人類の叡智は私に一時も安堵の時間もくれない。どこにいても、どんなに時間が経っても、消去しても削除しても、インターネットという全くわけの分からない電子の波に、刻まれ続けてしまう。インターネットタトゥーとはよく言ったものね。
◆ 目次
◆ “依存先”
近年では精神を病んだ少年、少女たちがインターネットで「依存先」というものが流行っている。そこでは自分の言えないほんとも嘘も全て受け入れてくれる人がいてくれ、何時だろうが、祭日だろうが、平日だろうが関係なく、愚痴も悩みも不安も嬉しいも悲しいも孤独も寂しいも全て全て、聞いてくれるそうだ。電話でも、チャットでも。
言葉は簡単に嘘を吐ける。心配して欲しい、気にかけて欲しいとか、変な目で見ないで欲しい、変な子と思って欲しい。思惑は人それぞれ。注目されたい、されたくなお。構ってほしい、構わないで。千差万別。気持ちは移りゆくもの、人の考えは流動的。
でも、そんな些細な動機が簡単な嘘が、取り返しのつかない事になる可能性もある。それがネット。高々電子の世界でその過ちは刻まれるわけだ。
「依存先」の相手の顔は見えない。でも、親なんかよりも沢山、わかってる・・・。そんな幻想、抱いてないかしら?
そんな甘い世界じゃない。
逃げることのできない「地獄」がここから始まるのよ。
◆ 依存先を信用して良い?
今や現代社会には欠かせない「ネット」そこに気楽に投稿する人は多い。私もそうだが、「たかだかネット」とたかを括ってる。ネット先のやり取りしてる人の容姿や、年齢、さらには性別すら、本当のことを公開してなければ、わからない世界。「ネカマ」なんて言われる人がいるのも確か。そんな「未知しかない」ネットで病んだ若者は「依存先」を探す。
幼少期から見ていた親や、友達ではなく、ネット上での「依存先」。そんなものに、絶対の信頼を置いて良いのだろうか?否。もちろん、若者は知らない。もしくは知っているけど知らないフリをしている「現実」がそこにはある。
残念だけれど、あるのよ。依存先は絶対の肯定者。では、その肯定者に思惑は無いのか?
ある。確実にある。絶対の肯定者。しかも赤の他人の肯定者は、ほとんどが、「その人も『依存先』を探している」人たち。あと、何割かの確率で、「若者を食い物にしようとしている、汚い大人」であることは間違いないわ。
この2つ、後者だった場合は運が悪いという話になるが、では、前者だったら?答えは簡単。
「仲違いして、両者恨み合いをする」
そして、ネットストーカーになる。これが事実よ。
なんでそんな未来かって?この世界に「絶対の肯定者」なんていないのだからよ。必ず、何らかの行き違い、疑問、否定があるの。しかも、それが理想を追い求めている同士なら尚のこと。
◆ 恨みを買われたら
恐ろしい世界だわ。言った言ってないの水掛け論が、ネットという世界でこんなことやったやってないの晒し合いになるんですもの。恨みは簡単に買うことになるわ。「裏切り」という形で。
そこから、SNS上のアカウントを変えなくてはならない騒動になるのよ。アカウントはその人が何年も使用していた記録みたいなものね。その記録を消さなくてはならない状態。また、作り直しても、どこからともなく、噂が流れてきて、また不快になる。もしくはまたエンカウントしてしまう。まさに終わりのない鬼ごっこ。大きな嘘をつけば「依存先」に弱みを握られるのと一緒。真実を告げてもまた一緒。これがネットの地獄よ。
◆ 〆
現代社会に置いて「ネット」から離れることはなかなか難しい。特に「人との繋がりが欲しい」と喘ぐ、精神を病んでいる方達においては手放すことのできないツールの一つでしょう。そんな今日の中で、「ネットを触ると不快になる」なんて事になったら・・・。それこそもっと大きな地獄になってしまうでしょうね。正しく使わねば、恐ろしい、ネット。皆様もどうぞお気をつけて。
小鳥遊 京華