現世の未来

 水面に映る女が笑った。それを私は見ていた。彼女の手首には無数の傷が。それを彼女は誇らしげに私に見せた。痛々しい傷。滴る血。手当をしたい。でないとこの人は——。自殺、自死。そんな言葉が脳裏を過ぎった。恐ろしかった。怖い。私の目の前で人が死ぬのを見たく無かった。世界では沢山の人が亡くなっているのに。日本人の私には死というのは他人事であってほしかった。目の前で、なんて耐えられなかった。世間の目というのも気にしたのかもしれない。非道な人とか言われたくない。白い目を向けられたりしたくなかった。ほんと、私は身の保身しか考えられない、最低な人だった。

「手当、しないの?」

「しない」

 振り絞って言った言葉は呆気なく否定された。手当は、しないらしい。私がしてあげようと、手を差し伸べるが、弾かれた。そして彼女はこれ見よがしに、ナイフでまた自身の腕を切り裂いた。血が飛び散る。信じられない光景に言葉を失った。痛くないのか?そんな、腕を切り裂いたりして、彼女はにこにこと笑っていた。それはもう、狂った人形のように笑っていた。

「意気地無しのあんたには出来ないでしょ?」

 挑発するように言われたが、確かに私には出来ない行動だ。したいとも思わない。彼女に狂気を感じた。なんでこんなこと。水面に血が広がる。ドクドクと流れ出る血に、私の心は完全に怯えていた。目には涙が溜まっていた。ぱっくりと開いた傷口。狂気の笑顔。こんなこと辞めて欲しい。なんでするの?止めることも問うことも私には出来なかった。彼女の行動が怖すぎて固まってしまったのだ。早くここから逃げ出したかった。でも、逃げる事は出来なかった。だって、ここは。

「もうやめろ」

 彼女の後ろから男がぬっと出てきた。高身長の優しそうなお兄さん。何処から来たのか全くわからなかった。狂気の彼女はムッとした顔をして、またナイフを振り上げる。しかし、その刃は皮膚を切り裂くことは無かった。お兄さんが彼女の振り上げた手を掴んでいた。そのまま、ナイフを奪い取ると、何処かにぶん投げた。かなり遠くの方で、カランッと音が鳴った気がした。一瞬の事だった。

「ちょ!ひど!!」

彼女は驚いた表情をした後、怒鳴り声を上げた。そしてお兄さんを蹴飛ばして走り去って行った。

「いつつ・・・・・・・・・」

「あ、あの・・・・・・・・・」

 私はお兄さんに涙声で声をかけた。痛そうに脛をさするお兄さんは、大丈夫と、顔を上げた。私は恐怖が去ったことに安堵をしていたし、話をしたかった。お兄さんと私は初対面だが、何処か見覚えがあった。あの彼女のことも知っていそうだったし。

 これが私とエルという人格の馴れ初めだ。彼女というのは暫定さんになる。彼女はしょっちゅう、私を弄ぶように、精神的DVを繰り返した。目の前で死のうとする彼女。血塗れの彼女。怖がる私を嘲笑う彼女。そのせいで私には感情の起伏が少ない。仕方ないのかもしれない。でも、感情が日々消えている毎日に嫌気が差した。

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