凄く懐かしい話

 暑くなって夜でも扇風機が必要になってきたこの頃。私は1人、本を読む事を義務付けられていたのを思い出したわ。懐かしき、小学校低学年の話。

 母親は私たちに、「人の痛みがわかる人」になることを望んでいた。それは何がきっかけだったのか分からない。でも、ある時から、私達に本を渡してきた。それはハート出版さんの「犬シリーズ」特に、【人のイタズラや虐待によって障害を追ってしまった犬】の話のシリーズを私達に読めと。読まされたのを今でも覚えているわ。

 人の醜さ、残酷さを知った本だった。それまでも、[子猫の死体を手で持ち校庭に埋めるため運んだ]りしてきた私にはやっぱりという気持ちと、残念でいたたまれない感覚があった。それなのに、犬は傷付けられた人に尽くしている。そんな本を何冊も何冊も読んで幼いながら、【嫌でも頑張ればきっと明るい世界がある】と叩き込まれてきたのかもしれない。

 簡単に読める本、児童書だった。それでも、深く深く心に残った話だったのよ。作り話では無い。フィクションならどれだけ良かったことが。残酷で無慈悲で非道な行いの数々。読んで、こうなってはならない。身勝手な生き物にはならない。と、私は誓った。もしかしたらこれが、私に文学の道を作ったのかもしれない。

 人は過ちを犯す。犯して、犯して、取り返しのつかない所まで来ることもある。しかし、そうならないように先人が道標として残してきた、本。それが今や私の教訓や、生き方を左右するまでなっている。実体験からの悲しみ、辛さ、戸惑い。それがリアルで伝わるノンフィクションは、私達には早すぎたわね。トラウマではないけれど、傷を付けた事には違いないわ。

 母親は本を読んだ後の感想を義務付けていた。作文にして提出の時もあったし、口頭の時もあった。それはとても、苦痛でしか無かったわ。何を感じたか、少しでも母親の求める表現を間違えたなら、どうしてか?なぜなぜ?と責められるような質問攻め。説明を必死にしても伝わるどころか、更なる質問。いわゆる、詰問のような状態。苦しい時間だった。母親は私達に、【人のせいでこうなっていることによる責任】みたいなものを感じて欲しかったのでは無いかと思うわ。幼少期から、責任。重いものを感じさせようとしものだわ。【結果は過程からなる】という事も、教えたかったのかもしれない。

 本を読んで良かったことは、【想像力が上がった】それは確かね。こうされたらこうなる。苦しいや嬉しいは他の人ではこうゆう風に書かれる。そして共感される。言葉が達者ではなかった幼少期の私達はこうして、【人の感情の表現】を覚えたのね。この頃はまだ、エル君が発達の本を読む前だったので、参考にはなったと思うの。

 では、ここで、幼少期、読まされていた本の題名を少し紹介するわね。『盲導犬ベルナシリーズ』『三本足のタロー』『救われた団地犬ダン』『目を塞がれた犬、純平』等々。人に弄ばれた犬の話、介助犬の話が主だったわね。

では、本日はここで失礼します。

京華

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