死生観について【解離性同一性障害の人格での考え】

 まずは、ご挨拶を。この体の生死の感覚を司る。人格名を一条 色【読み方:いちじょう しきと申す者。人格でしかないが、されど、人格。

 古くは2歳児にて、叔母の葬式を体験し、自身も死にかけ。葬儀を小学校2年生から毎年経験し、親族や親しい友達の親の死を経験し続け、ついに、同級生、兄弟の自死を経験したので、『自分は死神』だと思っていた経歴がある。昨年、その前も、夫の祖父や自身の祖父の死を経験し、葬儀の手筈までこちらがした。そんな経験がある。

 そんなこの体は、神棚を祀り、古くからの神道を進行している。しかし、同時に、天然石鑑定士を持ち、天然石のアクセサリー作家として、店も持つ。偏見や他宗派を否定は一切しない。が、この体に押し付ける事は許せない。選択は自身で致す所存。

 さて、長々と申し訳ない。ざっくり経歴を述べた訳だが。我が家では神道、古来日本の神社や八百万の神等の敬虔な信者だと思って頂ければいい。仏教もキリスト等ユダヤ教等も存じており、年末に、お坊さんが『ジングルベル』を錫杖で鳴らしたのは、笑った。『こんなんで、お釈迦様もキリストさんも怒らない』うぬ。真に同意である。人生の死生観についてだが、古く、平安時代では大鯰が地震の元。として、厄災と沈めるために祝詞を捧げたものだ。台風もそうである。神々を怒らせた、と皆、受け止めたのだ。このように、時代と共に、化学や天文学や地学等で改名される事はあるが、そこまで、専門家では無いなら知らぬが常。だから、俺が1つ言えるのは、【いつ何処で何があるかは、わかららんので、その時に幸せと思えればそれこそが、幸せな人生ではないか?】ということだ。

 その為に、医院長は『ペット』だと仰ったが、その言葉は知っている者には響くだろうが、その他の者には否定的に捉えられがちな言葉では、ある。ペットか、等の落胆もあるだろう。所詮は犬と同等か、等の極論にも成りかねない。だから、俺はこう言う。【心と一緒に有る存在】と。【あなたは1人だ】と【今、ここにいる。現実は有る】【幸せな空間に今はいる】とグランディングをしたく、願う。トラウマは皆、ある。解離も皆、有る。

 【ふと、その今を感じるための、自分】

 と、定義する。そうすれば、如何に大切か、感じるだろう。心と体は一心同体。心があれば、今を。体があれば、今を、わかる。見えるから時刻が時計で分かる。耳があるから、声を聞く事ができる。触れば温度が感じられる。鼻があるから匂いが分かる。口があるから、味を知る事ができる。それを全て体が、教えてくれるんだ。大切にしよう。はここから来ていると考えている。

 不思議な症例が、ある。

  1. 脳死判定されても、諦めずにその方の好きな音楽を流し続けたら、目覚めた。
  2. 病により顔面も麻痺し、声が発せられず、.全身が動かせなくなって適当に酷く扱われ続け、1人のヘルパーに気付いてもらってから優しくしてもらい、声や麻痺が和らぎ、手を動かせるようになった。

 双方、心と体が繋がっている証拠だ。高々、1つの症例だが。そんな事例もある。これが奇跡と言われる物になる。しかし、心と体は繋がって

共に有る。

それが、この不思議な症例の中身と、思う。スピリチュアルは思いが全て。信じたら幸せになるなんて、たくさんある。心が軽くなる。嬉しくなる。苦痛が苦痛ではなくなる。行った、願った、思った、それだけで。幸福になれることも多い。

「ありがとう」「ごめんなさい」を言うこと。これが感謝と敬意になる。それだけで、いい。通じる。sorryとthankyouで世界は通じる。それだけだ。

 感謝は思って言わなきゃ、人には通じないのだ。その為の口は大事にしよう。大切にしよう。それだけで笑顔に、なれる。幸せが映る。

感謝と死生観より
一条色。